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横浜地方裁判所 平成6年(ワ)806号 判決

原告(1)

石井猛

(他三七名)

右三六名訴訟代理人弁護士

林良二

高橋宏

藤田温久

鈴木裕文

同(復代理)

菅野善夫

被告

株式会社都南自動車教習所

右代表者代表取締役

小川直樹

右訴訟代理人弁護士

山田有宏

丸山俊子

松本修

主文

一  被告は、原告らに対し、それぞれ別表「認容金額一覧表」記載の各金員及びこれに対する平成七年一二月二八日から各支払済みまで年五パーセントの割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

四  この判決は、主文第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

(なお、当事者の表示中、「原告」の次に記載された括弧内の数字は、原告番号であり、以下においてはこの原告番号で原告名を表示することがある。)

第一本件請求

原告らは、雇用契約の相手方当事者である被告に対し、第一次的には、未払賃金請求権があると主張して、それぞれ別表〈略、以下同じ〉「認容金額一覧表」記載の各金員及びその内の別紙〈略、以下同じ〉債権目録1、2及び3記載の各月の「合計金額」覧記載の金員につき、右各欄に対応する各「起算日」欄記載の日から支払済みまでの遅延損害金(年五パーセントの割合)の支払いを、第二次的には、右未払賃金を支払わないのは不当労働行為で、原告らに対する違法な権利侵害であると主張して、不法行為による損害賠償として、右第一次的請求と同一の金員の支払いを求めている。

第二事案の概要

一  当事者間に争いのない事実及び確実な書証により明らかに認められる事実

1  被告は、自動車運転免許の教習所の経営などを主たる目的とする株式会社であり、神奈川県座間市〈以下略〉に支店を置き、同所において自動車教習所を経営している。原告らは、いずれも被告に雇用されている労働者であり(原告(3)、(30)、(31)、(35)、(36)、(37)及び(38)は、現在では退職している。)、全国自動車交通労働組合総連合会神奈川地方労働組合・神奈川県自動車教習所労働組合都南自動車教習所支部(支部という。)の組合員の全員である(右退職者は、退職時まで組合員であったものである。以下、同じ。)。

2  平成二年六月一日から施行された被告会社の就業規則(旧就業規則という。)四八条は、「会社は別に定める賃金規定によって賃金を支給する。」と定め、これを受けて制定された被告の賃金規定(旧賃金規定という。)によると、賃金のうち、基準内賃金は、基本給、技術給、勤続給、年齢給、業務手当、役職手当、資格手当及び調整手当によって構成されていた。基本給や各種手当の金額は、被告会社と支部との間の各年度毎の労働協約により決定されていた。給与の計算期間は、毎月二一日から翌月二〇日までであり、その月の二七日(二七日が休日又は祝祭日の場合は、その前日)に支給される定めであった。(〈証拠略〉)

3  被告は、平成三年八月一日を施行日として、就業規則を改定した。その四八条は、賃金について、会社は「別に定める賃金規程によって賃金を支給する。」と定め、これを受けて新たに制定された賃金規程は、その五条において、賃金を基準内賃金と基準外賃金とに分け、基準内賃金は、基本給(本人給及び職務給)及び調整給により構成されるものとされ、基準外賃金は、通勤手当、家族手当、食事手当及び時間外勤務手当により構成されるものとしている。そして、基本給は、正規の就業時間における労働に対する報酬であるとされ(一九条)、本人給は「本人給表」に定めるとおりとされている(二〇条一項)が、「本人給表」の数字は最小単位を千円とし、別に定める初任給に年齢と勤続年数の交差するところの額を加算したものが個人の本人給額となるとされ(同条二項)、職務給は従業員の有する資格、割り当てられる職務の複雑さと責任の度合い並びに従業員の有する経験及び勤務成績に基づき、会社の目標成果達成に貢献する度合いに基づき、「職務給表」に定めるとおりとされている(二一条)。なお、調整給は、主として、賃金規程の変更により生じた格差是正処置を目的とするものである(二七条)。そして、二〇条二項により別に定めるとされた初任給については、別表「初任給及び初号賃金」において、「平成三年度時点における初任給は一三万五〇〇〇円とする。」と定められた。なお、賃金の計算期間及び支給日に関する規定内容は、旧賃金規定と同一である(右改定後の就業規則及び賃金規程による賃金体系を「新賃金体系」という。)。支部は、平成三年七月三一日に「今回の賃金規定の改定は、従来の賃金規定による賃金の条件を下回るものであって、反対する。」との意見書を提出した。被告は、同年八月一日右意見書を添付して、改定後の就業規則及び賃金規程等の附属規程を厚木労働基準監督署長に届け出て、同日から新賃金体系に移行した(〈証拠略〉)

4  被告と支部は、平成三年度(四月一日から翌年三月三一日までを一年度とする。)から平成七年度まで、賃金引き上げ交渉において、ベースアップによる加算額(ベースアップ分という。)を次の金額とすることを合意した(平成四年から平成七年までの合意成立の日は弁論の全趣旨により認める。)。しかし、被告と支部との間で、右各合意に関する労働組合法一四条所定の書面は作成されなかった。

(一) 平成三年度 五〇〇〇円。

合意成立の日については、争いがある。原告は、平成三年一〇月一四日ころと主張し、被告は、同月三一日であると主張している。

(二) 平成四年度 五〇〇〇円

平成四年六月二八日合意成立。

(三) 平成五年度 七〇〇〇円。

平成五年五月一三日合意成立。

(四) 平成六年度 五四〇〇円。

平成六年七月六日合意成立。

(五) 平成七年度 一五〇〇円。

平成七年八月四日合意成立。

5  被告は、いわゆる第二組合である都南会の組合員及び非組合員に対しては、右各ベースアップ分を各年度の四月分に遡って支給している(平成三年度分については当事者間に争いがなく、右以外の年度分については弁論の全趣旨により認める。)。しかし、被告は、支部組合員である原告らに対しては、支部との間でベースアップについての労働組合法一四条所定の書面が作成されていないことを理由として(被告の平成六年五月一九日付け準備書面)、右各ベースアップ分を支給していない。

6  右の合意を前提とした原告らのベースアップ分の未払額は、平成三年度は月額五〇〇〇円、平成四年度は月額一万円(五〇〇〇円+五〇〇〇円)、平成五年度は一万七〇〇〇円(五〇〇〇円+五〇〇〇円+七〇〇〇円)、平成六年度は二万二四〇〇円(五〇〇〇円+五〇〇〇円+七〇〇〇円+五四〇〇円)、平成七年度は二万三九〇〇円(五〇〇〇円+五〇〇〇円+七〇〇〇円+五四〇〇円+一五〇〇円)となる(別紙債権目録1、2及び3の「基準内賃金未払い賃金」欄記載のとおり。)。

7  原告らは、平成三年四月から平成七年一〇月まで(賃金の計算期間の定めに従い、平成三年三月二一日から平成七年一〇月二〇日までの意味である。)に別紙債権目録1、2及び3記載の「残業時間」欄記載の時間数の時間外労働(残業)に従事した。被告の賃金規程によると、時間外勤務手当(残業手当)は、基準内賃金額を一六九で除したものに一・二五を乗じ、これに時間外労働時間を乗じて求めることとされている。

原告らの同目録1、2及び3記載の各「基準内賃金未払い賃金」欄記載の金額を一六九で除したものに一・二五を乗じ、これに「残業時間欄」記載の時間数を乗じると、それぞれ対応する「残業未払金額」欄記載の金額となり、これに右「基準内賃金未払い賃金」欄記載の金額を加えると、各「合計金額」欄記載の金額となり、各「合計金額」欄の金額を合計すると、各「請求債権総合計」欄記載の金額となる(計算上明白)。そして、同目録1、2及び3の各「請求債権総合計」欄記載の金額を合計したものが、別表「認容金額一覧表」記載の金額である。

二  争点及び争点に関する当事者の主張

1  第一次的請求―未払賃金の請求について

(一) 争点1

原告ら主張の賃金請求権は発生したか、否か。

(1) 原告らの主張

ア 賃金請求権は、会社と労働者との労働契約によって発生するものであり、労働協約の規範的効力によらなければならないものではない。前記第二の一の4のとおり、支部と被告との間でベースアップ額について合意が成立しているのであり、賃金請求権の発生原因としては、これで十分である。合意に至りながら労働組合法一四条所定の書面が作成されなかったということは、同法によって労働協約に付与された効力が発生しないというに止まり、私法上の契約としての効力まで否定されることにはならない。

イ 被告は、平成三年度のベースアップ額を五〇〇〇円とすることを支部との間で合意しながら、新賃金体系導入についての合意が成立しないことを理由に協定書の作成を拒んだ上、協定書が作成されていないことを理由にベースアップ分の支払を拒絶している。しかし、新賃金体系は、それまでの賃金体系を著しく大きく変更するものであり、労働条件の大幅な変更である。まず、賃金体系の変更に伴い、生涯賃金が大幅に引き下げられてしまう者が出るが、これに対する配慮が不十分である。また、新賃金体系においては、前歴評価が不合理であるし、職務給の決定には被告の恣意的な運用を招く危険の大きい査定制度を導入するものとしている。このような不当な条件をベースアップ分支給の差し違えの条件とすることは許されない。被告は、この新賃金体系にあくまでも固執し、ベースアップ分支給の差し違え条件にして支給を拒み続けることは、その経済的打撃によって支部の弱体化を狙った明らかな不当労働行為である。したがって、新賃金体系に対する合意を条件とすることは、支部の団結権を侵害するものであり、違法な条件というべきであるから、これがために労働組合法一四条所定の書面が作成されていないことを理由として、ベースアップ分の支給を拒むことは許されない。平成四年度以降のベースアップ分についても同様である。

ウ 被告は、ベースアップ分を支給しない理由として、新賃金体系導入(ママ)導入についての合意が成立していないことをあげている。しかし、被告は、その一方で、支部組合員である原告らを含めた全従業員に対して、平成三年四月分から、新賃金体系に従った賃金の支給を現実に行っている。したがって、その新賃金体系導入に対する合意が成立していないことを理由として、合意が既に成立しているベースアップ分の支給を拒むことは、禁反言の原則に反するものであり、信義則に反して許されない。

(2) 被告の主張

ア 支部の組合員である原告らが、被告に対し、原告ら主張のベースアップ分に相当する未払賃金の請求権があるというためには、個々の労働契約上の権利としてそのような請求権が発生していなければならない。原告らに、労働契約上の権利としてベースアップ分に相当する未払賃金の請求権が認められるためには、労働協約の規範的効力によって、ベースアップの合意が個々の労働契約の内容になることが必要である。しかし、本件においては、支部と被告との間において、ベースアップに関し、労働組合法一四条所定の書面による労働協約が作成され、これに支部と被告が署名(記名)押印した事実はないから、労働協約としての効力は発生しておらず、原告らにその主張の未払賃金の請求権はない。

イ 被告は、平成三年八月五日ころから、支部に対し、同月一日実施の新賃金体系に基づく賃金規程の別表「初任給および初号賃金」に基づいて同表記載の「初任給一三万五〇〇〇円」を基準としてこれに五〇〇〇円を加算したベースアップ額を提示した。これに対し、支部は、五〇〇〇円のベースアップについては合意するが、新賃金体系については合意しない、すなわち、賃金規程の別表「初任給および初号賃金」に基づいて同表記載の「初任給一三万五〇〇〇円」を基準額とすることを拒否したのである。労使間でベースアップについて合意があったといえるためには、ベースアップ後の支給額が具体的明確に確定しうる程度の合意に至ったことが必要というべきである。すなわち、単にベースアップの加算額の合意があったというだけでは足りず、更に基準額についての合意がなくてはならないというべきである。本件においては、平成三年度分ないし同七年度分のベースアップ加算額についての合意があっただけであり、被告が提示した基準額については合意ができていないのである。したがって、ベースアップ加算額を合わせた賃金支給額が確定しうる程度の合意には至っていないのである。

(二) 争点2

原告らの賃金請求権は、時効により消滅したか、否か。

(1) 被告の主張

ア 原告らが請求する各未払賃金のうち、平成四年三月七日以前に履行期が到来した分、すなわち、別紙債権目録1記載の平成三年度四月分から平成四年度二月分までの賃金請求権は、時効により消滅した。被告は、本訴において右消滅時効を援用する。

イ 原告らの後記主張アは争う。同イのうち、原告らと被告との間で、別件訴訟が係属していたこと、別件訴訟において裁判所の和解勧告により平成四年三月から和解が試みられたこと、右和解手続が一年を超える期間続けられたこと、平成五年九月二二日に和解が打ち切られたことはいずれも認めるが、その余は否認して争う。同ウのうち、本件訴訟提起の日は認めるが、その余は否認して争う。同エ及びオは否認して争う。

(2) 原告らの主張

ア 平成三年度四月分から同年度九月分までの未払賃金の履行期が平成四年三月七日以前に到来したとの主張は、否認する。平成三年度分のベースアップの合意は、平成三年一〇月一四日に成立したから、右請求権の消滅時効の起算日は、右合意成立の日の翌日である同月一五日である。

イ 被告は、支部との間で、平成三年一〇月一四日に同年度のベースアップの合意が成立したにもかかわらず、その支払いをしなかった。ところで、原告らと被告との間においては、別件の当庁昭和六〇年(ワ)第九七二号損害賠償請求事件(別件訴訟という。)が係属していたが、平成四年三月から裁判所の勧告により和解が試みられていた。右和解手続において、原告らの本件未払賃金についても同時に解決することが原告らと被告との間で確認され、交渉が進められていた。その際、被告は、ベースアップ額について被告と支部との間で合意が成立したことを認め、平成五年度分のベースアップ分七〇〇〇円の支払いを容認しながら、平成三年度及び四年度分を遡及して支払うことを拒否していたが、裁判所の説得により、解決は可能と判断された。ところが、和解手続が長引き、平成五年九月二二日の和解期日において、和解が打ち切られ、本件未払賃金問題についても、右和解による解決が不可能となってしまった。

以上のように、別件訴訟の和解手続において、本件未払賃金問題も解決されるべきことが確認されていたのであり、原告らは、右和解手続において、明確に本件未払賃金を支払うべきことを被告に請求して交渉が行われていたのである。原告らの右和解手続における本件未払賃金の請求は、裁判上の請求に当たるから、これにより、時効は中断した。

ウ 仮に、右請求が裁判上の請求に当たらないとしても、原告らは、別件訴訟の和解手続において本件未払賃金の支払いを請求していたのであるから、和解手続が行われていた平成五年九月二二日までの間は、被告に対する本件未払賃金の支払催告が続けられていたものというべきである。原告らは、右和解打ち切りの日である平成五年九月二二日から六か月以内である平成六年三月八日に本件訴訟を提起したから、時効は中断した。

エ 被告は、別件訴訟の和解手続において、平成三年度のベースアップの合意が成立した事実を認めた上で、差し違え条件である新賃金体系についての合意がないとして、支払いを拒絶していた。被告は、本件未払賃金債務を承認したのである。

オ 本件未払賃金については、別件訴訟の和解手続の中で解決されるべきことが確認され、交渉も行われ、被告もベースアップ額について合意が成立したことを認めていた。そのため、原告らは、ひとまず本件未払賃金問題を切り離して先に解決すべきことを要求した。ところが、被告は、労働協約問題を含め他の問題と一括でなければ和解しないとの態度をとったことから、和解手続は一年を超えてしまい、しかも、最後は、労働協約問題について、被告が事実上のゼロ回答をしたため、本件未払賃金問題についても、和解による解決が事実上不可能となってしまった。そのため、原告らは、やむを得ず、本件訴訟を提起したのである。

したがって、このように当事者間において訴訟上の和解手続による解決が追求され、かつ、本件未払賃金問題だけを切り離せば解決も可能であったという状況において、自ら一括解決に固執して、最終的に和解による解決を拒否した被告が、そのような被告の行為によりやむを得ず提起した本件訴訟において、本件未払賃金債権の消滅時効を援用することは、権利の濫用というべきである。

2  第二次的請求―不法行為による損害賠償請求について

被告に支部の弱体化を狙った不当労働行為があったか、否か。それは、原告らに対する不法行為となるか、否か。

(一) 原告らの主張

被告が、支部の新賃金体系導入に対する合意を原告らに対するベースアップ分の支給の差し違え条件とし、支部が右の合意をしないことを理由にして、その支給を拒むことは、支部の弱体化を図った不当労働行為であることは明白であり、憲法が保障する支部の団結権を侵害する違法行為である。原告らは、少なくとも都南会の組合員や非組合員が受けるべき賃金と同一水準の賃金を受けるべきであったのに、右の違法行為により、これを受けることができないでいる。したがって、原告らは、少なくとも、ベースアップ分相当額(基準内賃金の未払額相当分及び残業手当未払額相当額の合計)である別表「認容金額一覧表」記載の各金員及びその内の別紙債権目録1、2及び3記載の各月の「合計金額」欄記載の金員につき、右各欄に対応する各「起算日」欄記載の日から支払済みまでの民法所定の年五パーセントの割合による遅延損害金相当額の損害を被っている。

(二) 被告の主張

原告らの右主張は否認して、争う。

第三争点に対する判断

一  第一次的請求(未払賃金の請求)について

1  争点1について

(一) 被告と支部は、平成三年度から平成七年度まで、各年度の賃金引き上げ交渉において、平成三年度及び四年度は各五〇〇〇円、平成五年度は七〇〇〇円、平成六年度は五四〇〇円、平成七年度は一五〇〇円のベースアップを行う旨の合意を、それぞれ当該年度中にしたが、右各合意に関する労働組合法一四条所定の書面が作成されなかったことは当事者間に争いがない。

(二) 原告らは、被告と支部との間で右の合意が成立したことを根拠として、右各ベースアップ分に相当する未払賃金等の支払を求めているのであるが、その請求権が発生したといえるためには、右各合意が原告ら各人と被告との間の労働契約の内容となることが必要であり、右各合意が労働契約の内容となるためには、それが労働組合法一四条所定の労働協約として成立して、規範的効力を具備することが必要というべきである。

ところで、労働組合法一四条が、労働協約は書面に作成して両当事者が署名し又は記名捺印することによってその効力を生ずると定めた趣旨は、労働協約が労使間において、労働条件の基準を設定する法規範としての作用を営むことから、労働協約の存否及び内容について後日当事者間に紛争が生ずることを防止するため、労働協約の締結に当たり、当事者をして慎重を期せしめ、その内容の明確化を図るとともに、当事者の最終的な意思を明確にすることにある。したがって、右の立法趣旨からすれば、右の要件を欠く労使間の合意については、労働協約としての効力を否定するのが相当と考えられる。しかし、労働条件に関する合意が労使間に成立しながら、同法一四条所定の書面が作成されない事情や理由には種々の場合が考えられるのであるから、これらの個々の具体的事情を考慮することなく、これをすべて同列に考え、同条所定の厳格な様式による書面の作成されない合意にはおよそ労働協約としての効力がないとするのは必ずしも相当とはいえない場合もあると考えられる。しかして、労働協約の規範的効力は、協約の本質から認められる効力であり、同法によって創設された効力ではないところ、同法一四条の立法趣旨は前記のとおり後日の紛争防止という政策的配慮に基づくものであるから、その趣旨を害することのない限り、書面性の要件を緩和して、少なくとも規範的効力を有する労働協約としての効力を認めるのを相当とする場合もあるというべきである(ただし、多数者組合の保護のために、政策的配慮から特に同法により創設された労働協約の一般的効力については、書面性の要件を緩和すべきではない。)。

(三) これを本件についてみるに、前記第二の一の各事実に証拠及び弁論の全趣旨を併せると、次の各事実(争いのない事実を含む。)が認められる。

(1) 被告と支部との間において、今までに二度、ベースアップ等についての労働協約たる協定書が作成されないまま、合意されたベースアップ分が支給されたことがある。すなわち、昭和五八年度において、同年七月に被告と支部がベースアップ額(一万三八〇〇円)などについて合意し、被告が支部に対して協定書案を示したところ、その案の中に、「労働組合の要求する一万三八〇〇円のベースアップを実施するためには教習料金を一時間当たり三五〇円程度値上げする必要がある。この料金値上げによって、将来教習生が減少し、それが原因で会社が経営不振に陥ることも予想される。このことは会社、組合ともに認めるところである。そこで今回は、組合の要求どおりベースアップを実施するが、今後は当然のことではあるが、組合及びその組合員は会社に対し、いわゆる経営権といわれるものに関して干渉するような言動をしないことはもちろん、経営者の責任を追及するようなことはいっさいしないことを確認する。」という内容の「四 料金改定について」と題する項目があったことから、支部が右項目に同意せず協定書が作成されなかったが、被告は、ベースアップを実施し、支部組合員に対し、合意されたベースアップ分を支給した。また、平成二年度においても、新賃金体系導入問題をめぐり協定書の作成には至らなかったが、ベースアップ額についての合意が成立していたことから、支部組合員に対し、ベースアップ分が支給された。(〈証拠・人証略〉)

(2) 被告は、昭和五三年六月以来旧賃金体系に基づく給与を支給してきたが、旧賃金体系には矛盾があるとして、平成二年暮れ以降その改定のための検討を続け、翌三年四月八日以降、支部に対し、賃金体系改定の検討資料を提供し、旧賃金体系の問題点を指摘してその改定を提案し、交渉が続けられてきた。被告は、社内報においても、所論を展開し、真面目に一生懸命働いた者と働かないものとは当然差をつけ努力に報いること、ノーワーク・ノーペイの原則を堅持すること、旧賃金体系の不合理性の検討とそれに伴う賃金体系の抜本的改定が被告の労務対策の基本である旨の考えを重ねて明確にした。平成三年五月一〇日行われた被告と支部との団体交渉以降回を重ねて交渉がなされたが、支部は、新賃金体系の導入に同意しなかった。(〈証拠・人証略〉)

(3) 被告は、平成三年六月四日支部に対し、賃金規定の改定を主要部分とする就業規則の一部改正案を提示して、意見書の提出を求めた。支部は、同年七月三一日、賃金規定の改定は、従来の賃金規定による賃金の条件を下回るものであるから反対するとの意見書を提出した。被告は、同年八月一日右意見書を添付して、右改正後の就業規則を厚木労働基準監督署(ママ)署長に届け出た。被告は、右のような経緯を経て、新賃金体系を導入した。(〈証拠・人証略〉)

(4) 被告は、支部との平成三年度の賃金引き上げ交渉において、同年度の賃金については、新賃金体系を前提として、賃金規程の別表「初任給および初号賃金」所定の平成三年度の初任給額一三万五〇〇〇円に五〇〇〇円を加算してベースアップを行う旨回答したところ、支部は、加算額を五〇〇〇円とすること自体については同意した(第二の一の4の(一))が、賃金規程の別表「初任給および初号賃金」所定の平成三年度の初任給額一三万五〇〇〇円に五〇〇〇円を加算するということは、新賃金体系の導入を前提とするものであることから、新賃金体系の導入に同意する形式となる書面(協定書)の作成には応じなかった。平成四年度の賃金については、同年六月二八日ベースアップ額を五〇〇〇円とすることについて合意が成立した(第二の一の4の(二))が、被告の回答の形式が「賃金規程の定める本人給の初任給の額を一四万五〇〇〇円とする。」というものであったことから、支部は、新賃金体系の導入に同意する形式となる書面(協定書)の作成には応じなかった。平成五年度の賃金については、同年五月一三日ベースアップ額を七〇〇〇円とすることについて合意が成立した(第二の一の4の(三))が、被告の回答の形式が「賃金規程の定める本人給の初任給の額を一五万二〇〇〇円とする。」というものであったことから、支部は、新賃金体系の導入に同意する形式となる書面(協定書)の作成には応じなかった。平成六年度の賃金については、同年七月六日ベースアップ額を五四〇〇円とすることについて合意が成立した(第二の一の4の(四))が、被告の回答の形式が「賃金規程二〇条二項の『別に定める初任給』の金額を一五万七四〇〇円とする。」というものであったことから、支部は、新賃金体系の導入に同意する形式となる書面(協定書)の作成には応じなかった。平成七年度の賃金については、同年八月四日ベースアップ額を一五〇〇円とすることについて合意が成立した(第二の一の4の(五))が、被告の回答の形式が「賃金規程二〇条二項の『別に定める初任給』の金額を一五万八九〇〇円とする。」というものであったことから、支部は、新賃金体系の導入に同意する形式となる書面(協定書)の作成には応じなかった。(〈証拠・人証略〉)

(5) 被告は、ベースアップ額のほか、新賃金体系の導入にも合意した都南会の組合員及び非組合員に対しては、右各ベースアップ分を各年度の四月に遡って支給しているが、支部組合員である原告らに対しては、支部との間でベースアップについての労働組合法一四条所定の書面が作成されていないことを理由として、右各ベースアップ分を支給していない(前記第二の一の5)。しかし、被告は、支部組合員である原告らに対し、平成三年四月分から新賃金体系による賃金(ただし、本件係争の各年度のベースアップ分を除く。)を支給している(当事者間に争いがない。)。

この点に関し、被告は、就業規則及び賃金規定の改正は合理的なものであり、原告らにとって不利益変更にはならないから、新就業規則及び新賃金規程は有効であり、原告らの個別の同意がなくても個々の労働者を拘束するものであるとし、被告は新就業規則及び新賃金規程に従った賃金支払義務を負担したので、原告らに対しても新賃金体系に基づいて賃金を支給しているのであり、ベースアップ分を支給していないのは、新賃金体系を定めた賃金規程のベースアップの基準額(新賃金規程の「初任給および初号賃金」所定の初任給額)に支部が合意していないからであると主張している(当裁判所に顕著)。

(6) 平成三年一一月七日、被告と支部との間で、平成三年度夏期賞与の額について、各人の賞与額は協定妥結日を含む賃金計算期間を基にして支給されている基準内賃金の一・六月分とする旨の合意が成立し、その合意等を記載した協定書が作成され、被告及び支部が記名捺印した(〈証拠略〉)。右の「協定妥結日を含む賃金計算期間を基にして支給されている基準内賃金」とは、新賃金体系による賃金を意味するものである(当事者間に争いがない。)。

平成七年一〇月一七日の本件口頭弁論期日において、当裁判所から、被告が原告らに対し、本訴請求に係る未来(ママ)賃金等を最初に遡及して全額一時に支払うこと等を内容とする和解案が提示され、同年一一月一四日の口頭弁論期日に原告らがこれを受諾する旨の回答をしたものの、被告は、未払賃金を最初に遡及して支払うことはできないとして受諾を拒絶したが、平成三年度ないし七年度分のベースアップ加算の合意そのものを否定したり、あるいは、新賃金体系に基づく基準内賃金の合意がないからベースアップ額を確定できないということを拒絶の理由とはしていない(当裁判所に顕著)。

(四) 以上の認定事実に基づいて考察する。右事実によると、被告は、原告らに対し、平成三年四月分の給与(計算期間は同年三月二一日から同年四月二〇日まで)から現在に至るまで、新賃金体系による賃金を支給しており、原告らもこれを異議なく受領していることが認められる。しかも、前掲(証拠略)の協定書により、平成三年度夏期賞与の額を、新賃金体系による基準内賃金を基準額としてその一・六月分とすると合意されているのであり、このことは、賃金規程の別表「初任給および初号賃金」に定められた平成三年度時点における初任給に、年齢と勤続年数の交差するところの額を加算した額である本人給(賃金規程二〇条二項)及び職務給によって構成される基本給と調整給の合計額である基準内賃金(同五条)を基準とするということにほかならないから、賃金規程の別表「初任給および初号賃金」の「平成三年度時点における初任給は一三万五〇〇〇円とする。」との定めについても、右協定書において、被告と支部との合意が成立していると認めるべきである(これらの事実に、原告らが平成八年二月二〇日付け準備書面において、「平成三年以降新賃金体系が適用、実施されてきており、被告にそれ以外の賃金体系が存在するわけでもないし、原告らの新賃金体系による賃金の支給を拒んだり、旧賃金体系に基づく賃金の支給を主張したこともない」との主張を陳述している(当裁判所に顕著)ことを併せ考慮すると、支部の組合員の全員である原告らは、本件口頭弁論終結時においては、新賃金規程二〇条二項及び別表「初任給および初号賃金」の定める初任給額を含む新賃金体系の導入に対して黙示的に同意しているともいえる。)。しかし、労働組合法一四条の立法趣旨からすれば、係争各年度のベースアップについての合意が成立したという事実のみでは、その合意に規範的効力を具備する労働協約としての効力を認めるには足りないといわざるをえない(なお、原告らは、被告が新賃金体系導入に対する支部の同意をベースアップ分支給の差し違え条件にして支給を拒むことは不当労働行為であり、これがために同条所定の書面が作成されていないことを理由としてベースアップ分の支給を拒むことは許されないと主張するが、本件において取り調べた証拠のみによっては、原告指摘の事実から被告の不当労働行為を認めるには足りないから、右主張は採用することができない。また、原告らは、被告が合意が既に成立しているベースアップ分の支給を拒むことは信義則に反するから許されないと主張するが、本件において取り調べた証拠により認められる事実のみによっては、被告の信義則違反を基礎づけるには足りない。原告らの右主張も採用することができない。)。

(五) ところで、原告らは、本件訴訟において、原告ら代理人の記名捺印のある訴状及び準備書面をもって、係争各年度のベースアップについて被告と支部との間で合意が成立したことを主張している(当裁判所に顕著)。これに対し、被告は、右各合意の成立を否認する趣旨の答弁を記載した被告代理人の記名捺印のある平成七年一二月一九日付け準備書面を提出したが、同日の第一四回口頭弁論期日に「平成三年度ないし平成七年度の各年度におけるベースアップに関する加算額について、合意があったことは認める。」との陳述を付加して否認の答弁を認める趣旨に訂正した上、右準備書面を陳述している(当裁判所に顕著)。被告の右付加陳述部分は、第一四回口頭弁論調書の「弁論の要領」欄に記載されているが、右記載は、実質的には、右準備書面と一体のものとみることができ、原告らが訴状及び各準備書面により右合意成立の事実を主張し、これに対し、被告が右準備書面により右合意成立の事実を認める答弁をしたものということができる。そして、右訴状及び各準備書面は、記名捺印のある副本が相手方当事者に送達あるいは交付されているのであって、このことからすると、被告と原告らは、その間の往復文書において、平成三年度から平成七年度までの各年度における被告と支部間のベースアップの合意成立の事実を確認したものというべきであり、原告らが支部の組合員の全員であることを考慮すると、右の合意成立の事実の確認は、被告と支部との間でなされたものと同視することができる。

しかして、労働組合法一四条の趣旨が、後日当事者間に紛争が生じることを防止するため、労働協約の締結に当たり当事者をして慎重を期せしめ、その内容の明確化を図るとともに、当事者の最終的な意思を明確にすることにあることを考慮すると、右往復文書(訴状及び各準備書面)それ自体から当事者の最終的な意思の合致(ベースアップの合意成立)が明確に確認されるのであるから、右往復文書に記載された右合意は、規範的効力の限度で有効な労働協約としての効力を有するものと解するのが相当である。

被告は、支部は賃金規程の別表「初任給および初号賃金」に基づいて同表記載の「初任給一三万五〇〇〇円」を基準額とすることを拒否し、ベースアップ加算額についての合意があっただけであるから、ベースアップ後の支給額が具体的明確に確定しうる程度の合意には至っていないと主張する。しかしながら、支部が平成三年度の賃金引き上げ交渉においては、右「初任給一三万五〇〇〇円」を基準額とすることを拒否したことは確かであるが、同年度の夏期賞与額についての協定書(〈証拠略〉)により、賃金規程の別表「初任給および初号賃金」の「平成三年度時点における初任給は一三万五〇〇〇円とする。」との定めについても、被告と支部との合意が成立していると認めるべきであることは前記のとおりであるから、右主張は採用することができない。

(六) そうすると、被告の前記準備書面副本が原告ら代理人に交付された日である平成七年一二月一九日(当裁判所に顕著)に、被告と支部との間で、少なくとも規範的効力の限度で有効な労働協約が成立したものというべく、これにより、本件係争各年度のベースアップの加算額が被告と原告ら各人との間の労働契約の内容となったというべきであるから、その後に到来した最初の賃金支給日である同年一二月二七日を履行期とする、原告らの本訴請求に係る各未払賃金等の支払請求権が発生したものというべきである。

2  争点2について

争点1についての判断によると、本訴請求に係る原告らの未払賃金等請求権の履行期は、平成七年一二月二七日であるから、その消滅時効が完成していないことは明らかである。被告の争点2についての主張は、理由がない。

第四結論

以上の認定及び判断の結果によると、原告らの本件第一次的請求は、被告に対し、それぞれ別表「認容金額一覧表」記載の各金員及びこれに対する履行期の翌日である平成七年一二月二八日から各支払済みまで民法所定の年五パーセントの割合による遅延損害金の支払を求める限度では理由があるから、その限度でこれを認容し、その余は理由がないから、これを棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 渡邉等 裁判官 間史恵 裁判官木下秀樹は、転補のため、署名捺印することができない。裁判長裁判官 渡邉等)

別表「認容金額一覧表」

〈省略〉

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